森 宣雄
第1回 法廷という現場と、歴史の裁き
1 釈放の夜
2017年3月18日の夜8時、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんがようやく自由を勝ちとった。
その夜まで、前年10月17日に米軍基地建設への反対運動中に有刺鉄線を切断したとして逮捕されてから、異例の長期にわたる身柄拘束がつづいていた。弁護団の度重なる保釈請求、連日の拘置所前での抗議と本人へむけた激励活動、国内外にひろがった釈放要求運動をへて、約5カ月ぶりに釈放されたのである。
知らせを受けて待っていた市民やマスコミ100人ほどの前にあらわれた山城さんは、東村高江の山中で逮捕された時のままのジャージと長靴すがた。急な保釈通知だったため、どこかキョトンと戸惑っているふうだった。「一日一日、まさに千秋の思いで待っていた」が、まさか「今日保釈されるとは夢にも思わなかった」と、会見でよろこびとおどろきとを語った。
しかし、弁護士以外との面会や差し入れは釈放が近づくまでかたく禁じられ、いつ終わるともしれない5カ月間の拘留生活は、頑強な山城さんにとっても心身に耐えがたい苦しみだったはずである。家族や友人たちとの再会をよろこぶ満面の笑みのなかでさえ、口元が片方だけ硬く引きつって見えたのは、精神的なストレスによるものか、それとも逮捕前からわずらっていたリンパ腫の重い病気が拘留中に悪化したのではないか――再会に涙する者たちのこころに、いたたまれない不安と悲しみ、怒りをかき立てた。
今回のように器物損壊などの刑事事件で逮捕された場合、検察官は逮捕から最長23日以内に被疑者を起訴にするか不起訴にするか判断することになっている。そもそも事件自体が軽微なものであれば、「微罪処分」として1~2日程度で身柄が解放される。にもかかわらず、山城さんらは保釈されるのを夢にも思えなくなるほどの絶望的な処遇をうけた。
どうしてなのか。刑事事件に多くかかわる人権弁護士として40年以上の経験をつんできた国会議員の照屋寛徳さんは、週1回以上のペースでこまめに山城さんの面会をつづけ、「接見の度に博治には、体調管理に徹し、狭い独居房でも運動するよう勧めてきた。『お前が健康を損なえば、国家権力の思うつぼ』と口酸っぱく言ってきた」という(照屋寛徳ブログ2017年3月21日掲載「博治から 博治へ――その11」)。山城さんの自由をうばい、健康をうばうことで新基地建設反対の世論と運動をくじくのが国のねらいだというのである。
そして照屋さんは「博治の152日間の長期異常勾留」の意味を、こう総括している。「ウチナーがウチナーンチュの人間としての尊厳を賭けて平和創造の闘いを進めるうえで、権力に抗って沖縄を生きる深い意味を、博治が身をもって体現したもの」だったのだと。
2 5カ月ぶりにひびく声
釈放から十日ほどたった3月27日の正午。那覇地方裁判所でひらかれる山城さんらの公判にむけた事前集会が、裁判所まえの公園でおこなわれた。
「山城博治さんたちの早期釈放を求める会」共同代表の山内徳信さんの、「これはまさに民衆が勝ちとった釈放である!」という、いつもどおりの断固たるスピーチにつづいて、山城さんがマイクをにぎった。「法廷で被告人席に座らされているのは私たち3人で、基地建設を妨害し威嚇したと言っているが、政府は、思うように基地をつくらせない150万県民の存在自体が妨害であり威嚇だと、いずれ言いかねない。そして保釈後も誰とも会わせない自宅軟禁のような接触制限に置こうとした。安倍政権は私たちが自由に県民のあいだを行き来することをそれほど恐れている。光栄じゃないか! 追い込まれているのは政府だ。いつか必ず潮目が変わる時がくる」。
那覇の晴天に、前と変わらぬ山城さんの力づよいメッセージがひびき渡り、あつまった約300人の市民と、たがいによろこびを分かちあった。
3 法廷が現場となる
この公判の日、わたしはある手紙のことで山城さんとやりとりした。千葉県に住む鹿野政直さんが山城さんにあてた、未投函の封書である。
鹿野さんは日本の民衆史研究を代表する歴史家として知られているが、ともに山城さんをたずねたことが何度かあった。80歳代もなかばをすぎた年輪を刻みながら、山城さんの釈放を求める署名運動にも奔走し、釈放の晩、便せん2枚に祝意をしたためた。ただ、保釈直後は接見や通信連絡の制限がきびしくついていたため、わたしが封書を預かって中身を山城さんに伝えることにしたものである。
鹿野さんから公表の許しを得て見せてもらったその文面には2つのことが記されていた。ひとつは、山城さんの釈放を求める署名をつのったときの反応は、他とはレベルがちがっていて、即座にひびき、いかに多くの人が深くあなたの身を思っていたか判然としたということ。もうひとつは、「これからは裁判所が山城さんの現場となりますね」という、ある種の予言だった。
裁判所が、静粛をきびしく要求される法廷が、大衆運動のまとめ役である山城さんの現場となる――それはいったいどんなことなのか?
鹿野さんの手紙を読んでもすぐには絵が浮かんでこなかったが、まもなく、傍聴席や法廷の周辺で、それを現実のものとして目撃することになった。担当検事が途中で検事職自体を辞職したり、裁判長が病気で倒れて辞任し交代したりと異例づくめの公判過程で、大衆運動の現場となった裁判所。そのようすを、これからお伝えしてゆきたいと思う。
4 沖縄平和運動裁判
その前に、まずこの裁判であつかわれる事件がどんな背景をもっているか、ざっとふり返っておこう
名護市辺野古の新基地建設にたいする沖縄県民の世論は、2014年の3つの選挙――名護市長、衆院議員沖縄選挙区、県知事選のすべてで建設反対派が勝利し、世論調査でも7~8割が反対するなど明瞭だった。辺野古と並行して建設が問題になった東村高江のヘリパッドは、墜落事故が多発する米軍の新型輸送機オスプレイのための施設であり、オスプレイ配備にたいする反対も、辺野古と同様に圧倒的だった。
この県民世論にたいし日本政府は2014年夏以降、何度かの中断をはさみながら、建設工事の強行に打って出た。そのなかで2016年10月に山城さんらの逮捕と、翌年にかけての異例の長期にわたる未決拘留がおこった。これは国際的な人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルなど国外からも多くの批判をあつめたが、年末から年明けにかけて、早期釈放をもとめる署名が国内を中心におよそ6万人分、即座にあつめられた。政府の強権的な姿勢が火種となって、これまで以上に沖縄の平和運動にたいする支持がひろがる展開をみせた。
今回の裁判は、もともと2010年代に入ってから県内のみならず国内外に支持をひろげつつあった沖縄の新基地建設反対運動にたいし、日本政府が警察と検察の権力を使って直接的な弾圧をしかけてきたものとしての性格を帯びている。この意味で〈沖縄平和運動裁判〉と呼ぶこともできる。
一連の逮捕・長期拘留・起訴でターゲットの中心にすえられたのは山城博治さんであるが、対する国側の主役はだれか。法廷にすがたを見せることはまずないだろうが、是が非でも新基地建設を強行するよう号令をとばしているさまが時折報じられる、ときの政権のトップなのだろう。
この裁判のゆくえは現在および将来の沖縄と日本の社会のあり方に大きな問いを投げかけている。
5 事件のあらまし
つぎに、起訴にいたった諸事件の概要を整理しよう。
事件発生地 |
事件発生日 |
逮捕日 |
被告人 |
容疑 |
① 高江 |
2016/10/17 |
同日 |
山城博治 |
器物損壊 |
② 高江 |
2016/8/25 |
2016/10/4・20 |
添田充啓・山城博治・吉田慈 |
公務執行妨害・傷害 |
③ 辺野古 |
2016/1/28-30 |
2016/11/29 |
山城博治・稲葉博 |
威力業務妨害 |
①は2016年10月17日、東村高江の山中のヘリパッド建設現場で山城さんが有刺鉄線を切断した容疑。現場近くでの準現行犯逮捕だった。山城さんは、抗議のため多数の人が山中に入っていた現場で鋭利な有刺鉄線が危険だったため切断したと、容疑を認めている。
①の容疑は軽微なものであるが、那覇地方検察庁は山城さんの身柄拘束をつづけるため、3日後の10月20日に那覇簡易裁判所に拘留請求をおこなった。しかし簡裁は同日午後に請求を却下し、地検は即座に那覇地裁に準抗告し拘留請求をしたところ、同日夜、拘留が認められた。この拘留決定に先立ち同日午後4時に、②の容疑による山城さんの再逮捕がおこなわれた。これは簡裁につづき地裁でも拘留請求が却下されるのを見越して、それを無効化し、かつ防ぐためにおこなわれた別件再逮捕だったと思われる。
②の事件自体は、約2カ月前の8月25日に、東村高江のヘリパッド建設現場で防衛省沖縄防衛局職員の稲葉正成さんに暴行を加えたという公務執行妨害と傷害の容疑である。この事件では先に10月4日に、東京都在住でヘイトスピーチなどの差別に対抗するカウンター運動をおこなう添田充啓さんが逮捕されていたが、10月20日には山城さんに加え、神奈川県の牧師の吉田慈さんも逮捕された。
これら①②の事件が11月11日に起訴されたあと、最後の③の容疑による逮捕が11月29日におこなわれた。これは、起訴後には不要な拘留は解いて保釈が認められるのが通例であるところ、なお山城さんの身柄拘束をつづけるための逮捕だったようである。事件は10カ月も前に起きており、その間、これについての証拠調べが十分におこなわれていなかったことは、のちに法廷で明らかになるからである。
容疑は名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前路上にコンクリートブロックを積み上げ、新基地建設工事のためにゲート内に入ろうとする車両の進入を阻止したのが、威力業務妨害にあたるというもので、山城さんに加えて国内外で反戦平和写真展などをおこなってきた稲葉博さんが逮捕起訴された。
山城さんらの弁護団の三宅俊司弁護士は、裁判闘争報告集会(2017年6月3日、那覇市の自治会館)で、逮捕・再逮捕が相ついだ背景についてこう評した。「まず軽微な器物損壊で逮捕する、裁判所が拘留を認めないという、そうすると高江の事件で身柄を拘束する。起訴されると今度は別の事件で再逮捕していく。典型的な身柄を拘束し続けるための手続きが次々と行われている」。そして取り調べで「検察官の思い通りにならなければ被告人を外には出さない」という、日本の司法の病理として名高い「人質司法」の保釈請求却下が、再逮捕・再々逮捕につづき、前述の釈放要求運動を国内外によびおこすことになったのである(『山城博治さん、稲葉博さん、添田充啓さん 裁判闘争中間報告』山城博治さんたちの完全無罪を勝ち取る会編・刊、2017年)。
結局、保釈されるまでの拘留期間は、容疑事実をおおむね認めた吉田さんは1カ月あまりだったが、主たる容疑を否認した3人――稲葉さんは3カ月あまり、山城さんが5カ月、添田さんにいたっては半年以上の199日に及んだ。なお、罪状認否のちがいのためか、吉田さんの公判手続きは分離され別個に審理が先行して進められた。
6 刑事司法の危機
こうした逮捕と異例の長期拘留は妥当なものだったのか、異常さがあるとしたらどこにあるのか。60名あまりの刑法研究者が賛同して発表された「山城博治氏の釈放を求める刑事法研究者の緊急声明」(2016年12月28日)は、次のように解説してくれる。
3つの事件で問われた行為は、新基地建設問題をめぐる民意を表明する憲法上の権利行為としておこなわれたことは明らかであり、政治的表現行為の自由は、民主政治の上から、よほど重く確かな犯罪の嫌疑がないかぎり最大限尊重されなければならない。ところが、
いずれの事件も抗議行動を阻止しようとする機動隊等との衝突で偶発的、不可避的に発生した可能性が高く、違法性の程度の極めて低いものばかりである。すなわち、①で切断されたのは価額2,000円相当の有刺鉄線1本であるにすぎない。②は、沖縄防衛局職員が、山城氏らに腕や肩をつかまれて揺さぶられるなどしたことで、右上肢打撲を負ったとして被害を届け出たものであり、任意の事情聴取を優先すべき軽微な事案である。そして③は、10か月も前のことであるが、1月下旬にキャンプ・シュワブのゲート前路上で、工事車両の進入を阻止するために、座り込んでは機動隊員に強制排除されていた非暴力の市民らが、座り込む代わりにコンクリートブロックを積み上げたのであり、車両進入の度にこれも難なく撤去されていた。実に機動隊が配備されたことで、沖縄防衛局の基地建設事業は推進されていたのである。つまり山城氏のしたことは、犯罪であると疑ってかかり、身体拘束できるような行為ではなかったのである。
この声明と同時に発表されたプレスリリースでは、民主的に表明された沖縄の民意を国の力で踏みにじっておきながら法治国家であると豪語する政府にたいして「法律を学び、教える者として無力感におそわれる」との思いが吐露されている。また刑事司法も政府に追随し、非暴力平和の抗議行動を刑法で抑え込もうとするのは戦時治安法制の特徴であると指摘した上で、まだ「今ならば引き返して「法」をとり戻すことができるかもしれないので」緊急声明を発表したと、刑法学者としての危機感が表明された。
この事件の裁判で罪を問われるのは被告人であり、裁くのは国の公務員としての裁判官である。だが、こうした刑事司法のあり方自体の異様さを危惧する視点に立つとき、行為の是非を問われるのは裁判官、検察官、警察官たち、そしてかれらにたいする人事権をもって隠然たる権力を行使する大臣閣僚ら政治家たちである。そしてこれら国家機関の当局者たちの権力行為のゆくえは、権力をもたない民衆の、これからのくらしを決定的に左右するのである。
7 「歴史の裁き」ということ
いま法廷で進んでいる〈沖縄平和運動裁判〉で検察と弁護団がどう対峙し、裁判官がどのような判断を下すか、またその判断が長期的な歴史においてどんな意味役割をはたすか。それらはまだ誰にもわからないが、この文章では、裁判のゆくえが大きく私たちの歴史のゆくえにも関わっているものととらえて、歴史的な観点に立った同時進行的なレポートを記してゆきたい。
ところで、ときの権力者たちの統治行為の是非は「歴史によって裁かれる」と、よく言われる。ここでいう「歴史」とは何だろう。
ふつう「歴史書のなかで下される評価」というような意味で言われているのだろうが、ただし歴史家も歴史書も数多い。さまざまな立場がありうる。それでも、どんな立場の歴史家でも認めざるをえない一定の公共性をもった公平な評価というのが、当事者たちすべてが世を去ってしまうような長い時間、それこそ「歴史」をへるなかで研ぎすまされ、浮かびあがってくるはずだと、考えられているのだろう。その期待が、「歴史による裁き」ということばには込められている。
では、そのような公平な歴史的裁きがいつかやってくることは、何によって保証されるのか。それは目先の利益や個々人の利害得失をこえて、また特定の時代や地域をこえて受けつがれる、人間のモラルや道理、正義が守られてゆくことによってである。もしも、みながそうした努力をつつけるのをあきらめ、残される記録も歴史書もすべてときの権力者の意向に追従して書き換えられてしまってもよいということになったなら、もはや歴史による公平な裁きというものは期待できない。ありえなくなってしまう。その意味で、いまおこなう判断や行為は未来の歴史につながっており、それを支えている。
あたりまえのことを言ったようだが、20世紀の全体主義と大衆化の時代をへて、21世紀の情報化社会に入った私たち人類の未来にとって、すべての有力な記録の権力的な操作や、「嘘もつきつづければ本当になる」全社会的な暗示がけは、まんざら絵空事ではない気がする。社会や人間関係がこれまでのありようとは大きく変わっていく社会変動のなかで、人類が築いてきた民主主義やモラル、道理を、時流に抗してでも守ろうとする人びとがいなければ、「歴史による裁き」の未来も危うい。
その意味で、ほんとうに「歴史の裁き」を左右するのは、歴史を支えそのゆくえを担っている、各時代の権力なき民衆である。